15年戦争の罪と学び
靖国参拝問題から始まって、昭和の15年戦争(1930年代の満州事変から日中戦争、太平洋戦争敗戦までの戦争)の評価についての議論が続いています。
この戦争を肯定する立場の人(たとえばXさん)は、日本が明治維新、特に日清戦争、日露戦争以来築いてきた国力を、列強の侵略から守るための自衛戦争だったという説明をします。しかし、実際には、この戦争で日本は、国力をスッカラカンにしてしまいました。空襲で工業地帯は完全に破壊され、リンなどの肥料の原料も輸入できなくなったことで、田畑の生産力もすっかり落ちてしまいました。石油/石炭/資源を運ぶための船舶はほぼすべて米軍によって沈められてしまい、国を守る以前に、産業を動かすための資源さえ、運ぶことができなくなりました。
朝鮮、台湾、満州などの利権を守るという大儀はあったわけですが、結果的に日本は利権どころか、本土の産業基盤はもちろん、輸入、輸出に必要な輸送基盤、そして、多くの優秀なエンジニア、知識人、労働力を失ってしまったのです。
国を守るはずが、何も守れなかった。それが昭和の大日本帝国の指導者です。実際、戦争の後半になると、指導層が守るべきと考えていたのは、日本に国民でも、産業基盤でも、利権でもなく、天皇、というより天皇制というしくみそのものになっていました。いわゆる「国体護持」というしそうで、国体とは天皇制をさしていました。でも、もっと厳密にいうと、天皇制のなかでの、指導層がもつ社会的利権/優位性と言うことだと思います。なぜなら、昭和天皇が終戦を強く主張すれば、天皇さえ毒殺される可能性を感じていた、というぐらいですから。
明治以来築いてきた富を、昭和の指導者は結局守れなかった。その理由を、僕らはきちんとみておく必要があります。そして、今の指導者は、高度成長期にため込んだ富を守れるような国際感覚を持っているのか? ジャーナリストの田中宇は、メルマガの最新号でこう書いてます。
世界を動かしているメカニズムを、必死に探る努力をしていかないと、日本はまた独善的な行動に出て、世界に置いてきぼりを食い、国力を失うことになります。
▼http://tanakanews.com/f0927ukus.htm
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私自身、アメリカの中枢で多極主義者が動いていると感じ始めたのは、イラクが泥沼化したころからのことでしかないが、今年に入って世界の多極化傾向は、ますます拍車がかかっている。日本にも、この傾向を研究する人が政府や学界の中に増えていかないと、日本人は戦後営々と蓄積した富を、今後短期間のうちに失う結果になりかねない。
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Comments
>ここまでの議論で、意見が分かれる核心部分は、こんな場所にあると思います。「国内の主要セクションをコントロールできないような指導者は、戦争という選択肢をとるべきではない」という僕の立場と、「たとえコントロールが難しくても、(追い込まれたときには)戦争という手段をとることは認められていい」と考えるXさんの立場です。
>この立場の違いについて、bubbly さんはどちらが妥当だと考えるか、そこを聞かせてもらえると、うれしかったりします。もちろん、わからないという答えもありだと思います。
正直私はお二人ほど歴史についての知識は無いし、識者の考えもそれほどウォッチもしておりません。
また、前のコメントを書いたときにはまだ「靖国と消防士」を読んでませんでした。さっき読みました。お二人のやりとりの経緯がわかってなかった。失礼しました。
と、前置きした上で。
上記引用部の表現だと、問題が一般化されているっぽく見えますが・・・対象を特定しますね。
軍などの関連各部の勝手な動きを制御できていなかった政府(首相)は、開戦の決断をするべきではなかったと思います。といっても、一貫した戦略をもって一貫した政策を実行できるリーダがいなかったし、力も権限もなく無理だったようですので、それは「決断」と言えるものではなく既成事実追認の「事務手続き」に近いものだと思います。だから当時の肩書き上の指導者だけが「戦争しない」という決断ができたか、決断して戦争を止めることができたかというと、無理だったと思います。
だからといって、その決断なしいは事務手続きを肯定する気にはなれませんし、誇りに思うことはできません。これを認めたらまた同じことを繰り返すような気がします。
まだ、もう少し考えてみたいと思っていますが、とりあえず。
Posted by: bubbly | October 03, 2005 02:03
bubblyさん、こんにちは。前回はコメントできずにすいません。
この問題は、知識が必要ではありますが、知識がないと議論ができないと考えてしまうと、ちょっと詳しい人の「いいなり」状態になってしまいます。自分なりに、考える視点を持つことが、知識を再構築する力になります。
bubblyさんの「事務手続きを踏んだだけ」という指摘は、そこまで言うといささか彼らに厳しすぎる味方だろうなと思うものの、一面の真実を移していると思います。その理由のひとつが、5.15、2.26ふたつのテロ事件と、その間にどんどん拡大していった特高(特別高等警察)による思想弾圧でしょう。
ふたつのテロ事件では、確かに首謀者は処罰されましたが、軍部は、消極的な方針をとる指導者が気に入らなければ、「国のため」という大義名分を立てれば、暴力に出て暗殺行為をすることも、認められていい、「義憤に駆られて行動する」ことは、行きすぎるぐらいでも、その気持ちは評価されていい、という考え方です。
僕は教科書で学んだころから、どうしてもこの点が不思議でした。5.15、2.26両方とも、軍人がおこし、反逆として否定されたのに、その結果として軍の力が弱くなるのではなく、かえって強化されたということが矛盾に感じられて仕方がなかったのです。軍による文民の殺害が肯定される雰囲気。
これが当時の指導者の決断を鈍らせ、不適切かもと思いつつも、反対し続けられなかった大きな理由になっているようです。国民の中にもおかしいと思う人は多かったのですが、特高の目や治安維持法によって、声を出せなかった。
反対者の口を封じた上で、戦争の道を選んだのなら(そしてそれが当時の合法的な範囲内で行われたのなら)、道を選び、指導した人たちには、反対意見を聞きつつ進めた場合より、より大きな責任がかかると考えるべきです。その意味で、当時の指導者の責任は、今の指導者の責任より、ずっと重い。判断ミスは、判断ミスとしてしっかり糾弾されるべきだと僕は思います。
もちろん、そのことと、彼らが不真面目で、私利私欲のために、国民を犠牲にしたということとは別のことです。彼らなりに一生懸命国のことを考えたのかも知れません。でも、それは、全体として、ミスを防げないやり方だった。
そういうことなのではないかと思うのですね。
Posted by: paco | October 03, 2005 10:45
>国を守るはずが、何も守れなかった。それが昭和の大日本帝国の指導者です。
そうでしょうか。これまでにも何度か書いていますが、世界はこの戦争をきっかけに人種の平等を建前とし、有色人種の国家が対等にものをいえる情勢になってきたのではないでしょうか。そしてその恩恵を受けた日本は貿易で栄えることができた。シーパワー国家として理想に近い姿を達成するために必要な世界情勢を、結果としてあの戦争は作り出したのです。
米国はシーパワーの盟主ですが、半分はランドパワー国の特性も備えた(資源の豊富さなど)シーパワー国であり、英国も植民地を押さえているシーパワー国だったので、当時の世界情勢を変えようと言う意志はなかったはずです。
そしてこれも結果としてですが、米国もこれにより、太平洋上で日本と激突することの危険性を学んだはずです。だからこそ戦後の日本に対し、米国はそれほど悪い扱いはしなかったのではないでしょうか?(私はそう思ってます)
>反対者の口を封じた上で、戦争の道を選んだのなら
ご存知かもしれませんが、、、軍部も二つ(統制派と皇道派)に割れていたのです。(ざっくり言うと、統制派は天皇を最高司令官として、皇道派は現人神として見る傾向があった。)そして皇道派が暴力で主導権を握ろうとしたから、統制派がその事件を利用して皇道派を駆逐した。その後戦争終結まで統制派が主導権を握った。だから暴力で排除しようとした者が戦争の道を選んだ、というのとは少し違うような気がします。
そして国民もまた2・26事件の青年将校たちには同情的だったと聞きます。
また、昭和維新の歌にも「権門上に傲れども 国を憂うる誠なし 財閥富を誇れども 社稷を思う心なし」と歌っているとおり、皇道派青年将校たちの志が民を救うことにあり、日中戦争拡大にはむしろ反対だったということも無視できません。
私自身の意見としては、力を手にしながら自制できなかった彼らには否定的ですが。
ちなみに日中戦争拡大に責があると思われる近衛は、軍人ではありませんでしたが皇道派に同情的で彼らの復帰を望み、1943年の時点で近衛上奏文により早期戦争終結と東条批判を説いています。
こういう内外の状況を見てると、「力で口を封じて戦争にもって行った」というような単純な構図ではないのではないかと思っています。
Posted by: X | October 10, 2005 01:09
>bubblyさん
>その決断なしいは事務手続きを肯定する気にはなれませんし、誇りに思うことはできません。これを認めたらまた同じことを繰り返すような気がします。
事務手続きを肯定できないこと、誇りに思えないことと、「指導者が一方的に一般国民を戦地に送り込んだ」という糾弾をすることはまた別であると思っているのです。
彼らが事務手続きしかできなかった理由は、彼らのみにあるのではない、それが私の意見です。国民が選んだ議会の政治家たち、そして学者たちにもあった。
>当時の指導者の責任は、今の指導者の責任より、ずっと重い。判断ミスは、判断ミスとしてしっかり糾弾されるべきだと僕は思います。
それはそうかもしれません。しかしそれならば、あの時期に限定するのはおかしいでしょう。
例えば、、、世界を見てもありえないほどの統帥権の独立に手を貸し、その後憲法改正をしようとしなかった犬養毅の評価は現在、決して低くありません。筋を通さない暴力的軍人に倒されたため、立派な立憲政治家のような評価をされています。
満州開発に関して鉄道王ハリマンの介入を拒否した小村寿太郎は日露講和を纏めた功績で高く評価されていますが、井上馨は汚職政治家としてあまり評価が高くありません。
その他、あの戦争に踏み込むまでに身動きの取れない体制を作り上げ、あるいは情勢に追い込んで来た指導者達を再評価していくことこそが重要ではないでしょうか。
Posted by: X | October 10, 2005 01:11