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15年戦争の、論点(2) ~1930年代の日米関係

(2)1930年代の日米関係は戦争への必然を含んでいたのか?

Xさんは当時の日米関係について、悪化していたと言っていますが、悪化していることと、実際に開戦を容認することとは、大きな隔たりがあります。当時の米国は、モンロー宣言が生きている時代で、南北アメリカ大陸での孤立、それ以外との不干渉を掲げていました。1933年に就任したフランクリン・ルーズベルトは、一貫して米国大陸外への軍の派遣を否定しているし、憲法も含めて、そのような戦争を認める規定はなかったのです。

確かに、ブロック経済化によって日本は打撃を受けるわけですが、貿易摩擦を相手国との戦争で解決しようという判断は、飛躍が大きすぎ、合理的とは言えません。

で、Xさんの指摘ですが、

> 主要輸出品だった生糸の価格は暴落し、市民生活が危機にさらされ、
> 農村を中心に貧困が進みました。排日移民法も合わせ、日本は当時
> の経済システムでは膨大な人口を養いかねる状態になっていると考え
> られました。

確かに経済的な打撃は大きいわけですが、ではだからといって、市場を求めてさらなる拡張(満州進出)というの選択が正しいのか。確かに狭い国土の中で人口が増加し、生産力が余ったとしても、他国への侵略的な拡張が妥当だと決めてしまえば、どのような判断も「仕方なかった」で済んでしまうことになります。現代を生きる僕らとしては、a.本当の他のオプションはなかったのか、b.その進出がもたらす結果への評価が妥当か、という点はしっかり見ておく必要があります。

僕は経済学者でもないので、内需拡大で解決できたかどうかは説明できません。でも市場がないからとってくればいいという意思決定が、国家戦略として決定され、戦争(満州事変)がおこされたのではない、という点に、指導者の判断ミスを指摘したい。戦略と意思決定、そして場合によっては戦略的な撤退。こういう考え方ができていないことを、問題にしているのです。

日中戦争の開始も、同じように、国家戦略の決定なしに始まっています。もちろん、終結の戦略オプションもない。満州事変が起きたことの説明、日中戦争が起きたことの説明はあっても、その「判断」が妥当だというためには、当時の指導者がどのような「意思決定」を行ったのか、その妥当性を問わなければなりません。

> 自国に豊富な土地と市場を持つ米国は日本と違い、中国での権益確保には何の緊
> 急性も無かったはずです。仏印進駐は仏政府との合意の上で行ったものであり、
> 南部仏印については資源確保以外にも、米国が正規軍まで送って支援していた蒋
> 介石への支援ルートに対する牽制の意味もあります。
> これらの事実を考えるとき、挑発されたのはむしろ日本だとするのが正解ではな
> いですか?

確かにその通りです。日本は米国を刺激し、米国は日本を挑発した。そしてそれの挑発に乗ってしまった。国際政治では、挑発する方より、挑発に乗る方が悪いとされてしまうのです。そういう国際政治の常識を、日本は持ち得なかった(近世欧州の戦争の歴史を学ぶだけでも、挑発に乗ることの危険を学べるはず)。それだけ「ねんね」だった。その「ねんね」さに対して、分不相応な軍備をもってしまったことが、問題ではないかと僕は考えています。

つまり、そもそも日米が戦うまでの素地がなかったのに、中国では出口なき戦争を始め、それが米国を刺激してワナを仕掛けられたのに、それにも気づかずに調子に乗って南仏進出までやってしまった。この一連の判断は、戦略性のなさの上に、その場その場の判断ミスを積み重ねた結果というべきでしょう。

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Comments

(2)1930年代の日米関係は戦争への必然を含んでいたのか?

この設問自体が多少不思議なのですが。私はもともと日米戦争の日米交渉に絞って話をしていたのに、1930年代の話を論点に入れてきたのはpacoさんです。

>Xさんは当時の日米関係について、悪化していたと言っていますが、悪化していることと、実際に開戦を容認することとは、大きな隔たりがあります。

だから排日移民法や関税法程度では日本は開戦していません。

>南北アメリカ大陸での孤立、それ以外との不干渉を掲げていました。1933年に就任したフランクリン・ルーズベルトは、一貫して米国大陸外への軍の派遣を否定しているし、憲法も含めて、そのような戦争を認める規定はなかったのです。

そんなものは方針が変わったか、当選するための建前ではないですか。
実際には中国に義勇軍という名目の正規軍を派遣していましたし、不干渉を掲げているとは言っても西欧諸国との関係だけで、中国(満州含む)の門戸開放はしっかり主張していました。「西欧諸国の既得権益や共存は認めても、アジアの国には認めない」という態度が露骨ではないですか。

>貿易摩擦を相手国との戦争で解決しようという判断は、飛躍が大きすぎ、

別に貿易摩擦を戦争で解決したなどと私は書いていません。むしろ日本は石油禁輸措置の解除と引換えに、期限を決めて中国から撤兵しようとしていました。

>他国への侵略的な拡張が妥当だと決めてしまえば、~現代を生きる僕らとしては、~という点はしっかり見ておく必要があります。

これについてはまったく異存はありません。説得力ある他のオプションは見たこと無いですが、是非見てみたいものです。
しかしそれは「当時の責任者達が国民を無責任に戦場へ送り出したグロテスクな構図」に直接つながるものではないでしょう。「現代を生きる僕ら」が見える、あるいは見えたつもりになっているものでも、当時の人が見えるとは限らないものはあるのです。私が大局に関係ないノモンハン事件の結果などについて書いたのも、その一つの例だと思ったからです。

また、以前も書きましたが、如何なる判断であろうとも、その判断の結果として国家指導者が腹を切りあるいは諸外国から犯罪者扱いをされつつ、「現代を生きる僕ら」が今の繁栄を享受しているのは間違いない事実です。
ここを無視した当時の指導者たちに対する批判、揶揄は、それこそ「かっこわるい、みっともない判断」だと私は思います。

Posted by: X | September 23, 2005 at 19:44

>国際政治では、挑発する方より、挑発に乗る方が悪いとされてしまうのです。

pacoさんは以前は「日本がアメリカを挑発した」と書かれていましたが、そのときに「挑発に乗って対日強硬策を取ったアメリカが悪い」とは書きませんでしたよね。
なぜそんなに日本を悪者にしたがるのですか?そこが不思議です。アメリカ人の主張ならばその辺理解できなくも無いですが。

>その「ねんね」さに対して、分不相応な軍備をもってしまったことが、問題

それだけの軍備をもったからこそ一部近隣諸国の恨みを買ったものの、その他アジア・中央・東欧・先進諸国からの尊敬とそれなりの繁栄を得たのです。
問題ではないでしょう。ある意味必然的な方向性です。
当時の国策の失敗を追求するだけならばいくらでも批判はできます。しかし当時の国策の長短と代替策の長短とをそれぞれ述べなければ、責任者の追及論として説得力を持つとは思えませんが。

>日米が戦うまでの素地がなかったのに

アメリカは日露戦争直後から仮想敵国として日本を想定していました。また、北東アジアへ米国の勢力を広げようとしていたのは明白だから、素地が無かったなどとは言えません。
結局日米は戦い、それによって米国は太平洋の覇権と北東アジアの半分の政治的主導権を得、日本は白人独占の世界の打破および貿易による繁栄を得たのです。

Posted by: X | September 23, 2005 at 19:46

ここでは2点を考えてみたいと思います。

> また、以前も書きましたが、如何なる判断であろうとも、その判断の結果として
> 国家指導者が腹を切りあるいは諸外国から犯罪者扱いをされつつ、「現代を生き
> る僕ら」が今の繁栄を享受しているのは間違いない事実です。

この論旨で行くと、結果的に繁栄しさえすれば、途中の戦争判断が適切でなくても、大敗を喫して国力を落としても、戦争判断は妥当だった、と聞こえるのですが、そういう意味ですか? では、もし戦後の日本の繁栄がなければ、15年戦争の指導者はもっと批判されてしかるべきだ、ということですか?

> アメリカは日露戦争直後から仮想敵国として日本を想定していました。また、北
> 東アジアへ米国の勢力を広げようとしていたのは明白だから、素地が無かったな
> どとは言えません。

> 結局日米は戦い、それによって米国は太平洋の覇権と北東アジアの半分の政治的
> 主導権を得、日本は白人独占の世界の打破および貿易による繁栄を得たのです。

ということで行くと、結局、戦わずに米国と妥協した方が、よかったという結論になりませんか?

米国は、アジアの利権については、拡大の意図はあっても、捨てるつもりはなかった。そして日本の成長とぶつかった。……その後、日本は米国との間で、利権を分け合い、繁栄した。

そういうストーリーだとしたら(1930年代、日本人はそのような長期展望に立つべきだと僕は思います)、戦争に打って出て、結局ひどい負け方としたという歴史を経る必要はなかったのではないか?

三国同盟を結ばず、日中戦争を拡大せず、米国との間で満州国の承認と引き替えにアジアの利権で大幅に譲歩していれば、米国は日本を追い込む理由を失ったのではないか?

Posted by: paco | September 24, 2005 at 01:07

>この論旨で行くと、結果的に繁栄しさえすれば、途中の戦争判断が適切でなくても、大敗を喫して国力を落としても、戦争判断は妥当だった、と聞こえるのですが、そういう意味ですか?

違います。反省が不要だとは言いません。
しかし「大敗を喫して国力を落とした」というのは先の戦争の一面しか見ていない言い方です。戦争判断が妥当でない場合でも、得たものがまったく無いわけではないでしょう。こういう見方もあるのです。
http://www.bea.hi-ho.ne.jp/hirama/yh_ronbun_nichiro_yushuukan.htm
「人種平等、民族国家の独立というアジア主義の視点で日本の近代史を回顧すると、明治以来、日本が掲げ続けてきた日本の「大義」は完遂した。日本の1世紀にわたる戦争目的は苦難の歴史ではあったが達成されたと見るべきではないか」
現在の日本の繁栄を享受している日本人は、やはり戦争犠牲者への感謝を忘れるべきではないのではないか、そしてそれは決してグロテスクなものではないのではないか、と私は思います。

> では、もし戦後の日本の繁栄がなければ、15年戦争の指導者はもっと批判されてしかるべきだ、ということですか?

それは当然そうです。
例えば大東亜解放という大義が成立しえるということに気づかず、そういう方向で国民を鼓舞せず、結果として東南アジア諸国の自立を援けるような策も取らず、戦後に再植民地化されてしまう、あるいはされなくても、誰も日本には感謝しない世界だってありえたわけで、そういう世界で日本が今のような繁栄を得ていたとは到底思えません。
また、指導層がみんな逃亡しようとしたり過度に自己弁護して責任を回避しようとしたりすれば、諸国の軽侮を招くだけではなく、戦後の国民の団結についても決定的な障害が出たかもしれません。武力革命方針を採っていた政党もあったことですし、昭和30年前後に内戦を起こすような事態だってありえたでしょう。

Posted by: X | October 02, 2005 at 23:14

>ということで行くと、結局、戦わずに米国と妥協した方が、よかったという結論になりませんか?
>米国は、アジアの利権については、拡大の意図はあっても、捨てるつもりはなかった。そして日本の成長とぶつかった。……その後、日本は米国との間で、利権を分け合い、繁栄した。
>そういうストーリーだとしたら(1930年代、日本人はそのような長期展望に立つべきだと僕は思います)、戦争に打って出て、結局ひどい負け方としたという歴史を経る必要はなかったのではないか?

白人独占の世界の打破はどう実現するのですか?植民地支配を前提としたブロック経済も存続してしまいます。
国際連盟設立の際、日本は人種平等を規約に入れるよう主張しましたが、人種どころか国家平等でさえ受け入れられませんでした。仏蘭は日本敗北後、東南アジアに再植民地化のための軍を送っています。

この問題は論理的に話し合えば解決するというものではないでしょう。正面から殴りあいはじめたからこそ、有色人種は白人から建前だけでも認められるようになってきたのではないですか。

>三国同盟を結ばず、日中戦争を拡大せず、米国との間で満州国の承認と引き替えにアジアの利権で大幅に譲歩していれば、米国は日本を追い込む理由を失ったのではないか?

三国同盟は失敗には終わりましたが、戦争回避の国家戦略として推進していたわけで、大多数の反対論を無視してごく少数の指導者が強引にやったことではありません。当時の分析ではそれなりの成算を持って賛同した人もいたのです。昭和天皇や山本五十六海軍次官の反対を押し切れるほどに。
日中戦争の拡大、およびアジアの利権の譲歩についても同様です。
いずれについても、「誰が見ても実行前にそれが失敗に終わる」という明白な材料が、当時は無かったと見るのが正しいのではないですか?松岡の方針がどう見てもおかしいという状況になってきたときは、松岡の任免権を持たない近衛内閣は総辞職し、松岡はずしの第三次近衛内閣を組閣したわけですから。

松岡や東条は、軍部中枢の反対を押し切ってユダヤ人保護の政策を打ち出した人物でもあります。
彼らは当時の日本人の中ではそれなりに有能だっただろうし、今判断しても全面的に間違った価値観の持ち主というわけでもなかった。
ただ、最も重大な局面を任されたときに結果的に能力が及ばず、多くの犠牲者が出てしまった。そして彼らもそれについて深く慙愧の念を抱き、責任を回避しなかった。
それをグロテスクというのは同意できません。

Posted by: X | October 02, 2005 at 23:16

三国同盟については、いささか不運も重なったと思いますが(同盟締結の方針決定のその日から、ドイツの劣勢が始まった)、全体の意思決定の方法は、適切とはいえないと思います。一番大きいのは、繰り返しになりますが、陸軍大臣など上層部が意思決定するのではなく、下級軍事官僚の意思決定に引きずれたという構造です。この部分は、実は憲法上の制約ではなく、軍部内のマネジメントの問題で、戦争指導の判断ミスが重なる大きな理由になっています。

Posted by: paco | October 03, 2005 at 01:53

>陸軍大臣など上層部が意思決定するのではなく、下級軍事官僚の意思決定に引きずれたという構造です。

そうだったのですか?私はずっと松岡外相の独走かと思っていました。
日米開戦決定の知らせを聞いたとき、松岡自身が「三国同盟は一生の不覚だった。陛下と八千万同胞国民に対しお詫びのしようもない」と言って泣いたそうですから。
その松岡は、米国で苦学し米国が好きだった、当時の日本では最高レベルの知米派だったのです。

結局第二次近衛内閣は松岡はずしのために総辞職し、第三次近衛内閣を組閣します。首相が外相を罷免する権限を持っていないからです。
もし首相が閣内で十分な力を持つ仕組だったら、、、と思わざるを得ません。
(もっとも近衛だとあまり変わらないかもしれませんが・・・)

Posted by: X | October 10, 2005 at 00:58


「証拠がない」と言う事
窪田 明著
2005・11・06

最近、真珠湾攻撃に付いての小冊子を出版した。 其のお陰で、日本の多くに真珠湾攻撃研究者と意見を交換する機会があった。 多くの方々がご存知の様に、日本では、真珠湾攻撃陰謀説を支持する研究家は、比較的少ない。 此処で、陰謀説とは、「ルーズベルトが、本当は、事前に知って居たが、知らない振りをして、日本軍に攻撃させた」と言う歴史的な説明である。 米国の職業軍人などでも、此の陰謀説を支持する人も居る。

此れに対して、日本の多くの研究家で、そして、特に、著名な大学に関係された人々で、其の様な説を熱心に主張する人は殆ど居ない。 日本側には、「米国で、何故陰謀説がそれ程人気があるのか」と不思議がる人も多い。 そして、その様な日本の研究家の一部は、陰謀説を支持する「証拠は全然存在しない。」ときっぱり主張される。 相当自信が有る様である。 ただ、問題は、筆者にとっては、その「証拠が存在しない」と言う表現の正確な意味がなかなか掴めなかった事だ。 証拠と言っても色々な形のものがあるであろうし、強い証拠もあろうし、弱い証拠もあろうし、直接的な証拠もあろうし、間接的な証拠もあろうし、それが全然全く存在しないと言う事は、なかなか理解できなかった。 特に、完全に否定し難いものは、米国連邦警察(FBI)長官のJ. Edgar Hoover の口頭で数回に亘って残した「Rooseveltは事前に日本の攻撃を知っていた」と言う伝達であった(今野勉著「真珠湾奇襲・ルーズベルトは知っていたか」参照)。

日本で書かれた多くの真珠湾攻撃に関する本で、単に、一行的に、「証拠はない」と述べるものは多く、其の逆に、その正確な意味を丁寧に数頁に亘って説明するものは少ない。 しかし、筆者が、時間を掛けて、多くの真珠湾攻撃の研究家と文通したり、対話しながら段々分かって来た事であるが、どうやら、「証拠は存在しない」と主張する多くの場合に、「若し、本格的な裁判をしたとしたら、完全に立証出来る様な強い証拠は存在しない」と言う総合的な判断らしいと言う事だ。 そして、何故、その様な法的な厳格な立証基準を予想又は必要として居るのかと言うと、どうやら、此の攻撃直後の最初の一番正式な組織的な捜査というか調査が、米国連邦議会が行ったものであって、その場合に、多くの法律家などを含み、基本的に「法廷」手続的なものであったと言う事のよるらしい。 それ以降、どうやら、多くの研究者の知的な作業の基本的想定が、法廷手続き的なものと、無意識的に決まったらしく、そして、日本の真珠湾攻撃専門家も、或は、此の知的な伝統を忠実に受け継いでいるのかもしれないと言うものであった。

ただ、真珠湾攻撃の真相の研究は、基本的に、歴史的研究であって、個人に関しての刑事的、民事的その他の形の責任追及の問題ではない。 従って、「後者に適用すべき法的な手続きを、前者の場合に、全く同じ様に、適用すべきか否か」と言う問題は、どうしても残る。 人間の個人の問題と異なり、歴史的事件の場合には、本質的に、基本的人権擁護の問題は起らない。 一般に、歴史研究で、証拠を審査し、評価する場合に、裁判で、法廷で扱うような形の手続を採用しない。 歴史研究は、法廷審査の様な大量の時間をかけた高価なものではない。 そして、米国の議会が歴史事件を取り扱い評価して来た場合に、必ずしも、何時でも、真珠湾攻撃の場合の様に、徹底した形で、調査、審査して来ては居ない様だ。 ベトナム戦争のトンキン湾事件に関しては、米国の議会は、二度に亘って、審査して居り、その二度目には、「ベトナム側からの攻撃は、実は、起こらなかった」と言う結論を出して居る。 そして、後者の場合に、筆者の記憶に間違いが無ければ、其の使われた手続き過程は、極めて、簡単なものであった。

2005年の今日、米国では、2003年イラク戦争着手当時、米国政府の最高レベルで、開戦の必要性に関しての基礎情報が、人工的に操作されたか捏造されたと言う判断が常識化しつつある。 それ以外でも、ウオーター・ゲート事件その他で、米国政府の高官が、証拠の変造とか隠滅とかそれに似た行為を行った事は良く知られている。 真珠湾攻撃の場合は、その様な基本的な流れの例外なのであろうか。 真珠湾攻撃だけとかその他一部の歴史的事件に関しては、米国政府の高官は、100%全く正直に良心的に行動したと主張出来るのであろうか。

或は、「黒」かも知れないと言う形で、証拠を使って、公平に審査、評価して来て居ても、其の場合に、適用されるハードルを、始めから、必要以上に高い処に設置してしまうと、調査、捜査作業全体を必要以上に非現実的なものにしてしまわないか。 とすると、「黒」と言う結論を出すと言う現実的な確率を、始めから、殆ど零に近いものにしないか。

以上

Posted by: 窪田 明 | November 08, 2005 at 06:55

小生の小文を引用して下さり、有り難う御座いました。

小生の出版した小冊子と言うのは、

窪田 明著、『真珠湾攻撃 気になる若干の事項』(東京: 冬至書房、 2005年)。 ISBN 4-8852-241-6 C3031

です。

小生が其処で試みた仮説は、「英米が日本を真珠湾攻撃する様に仕向けた一番大きな理由は、多分、米国を第二次世界大戦に正式に参加させ、欧州で、英国をナチから救う事」と言うものです。 その当時、連邦議会の反対で、米国は、自主的には、参戦出来なかったのです。 それから、相当数の欧米の学者の説は、米国が本当に恐れたのは、独であって、日本では無かった様です。 従って、上記を憶測が正しいとすれば、1941年日米交渉---詰まり、例えば、中国に関しての日米の対立は---は、大体、外見であって、実質ではなかったと言う事になります。 それから、日米開戦に関して、チャーチルの歴史的な役割は大きかった様です。

窪田 明

http://kubota2006exblog.jp/
以上

Posted by: 窪田 明 | February 08, 2006 at 08:09

『真珠湾攻撃 気になる若干の事項』について
真珠湾攻撃問題についてはスティネットの本が出て以来余り問題になっていないと思っていましたところ、先日偶然、遅ればせながら、貴著を発見、購入拝読しました。小生は専門家ではありませんが、日米開戦について色々勉強しているものです。しかしいわゆる陰謀説には余り重点をおかず、むしろ政治外交過程に関心がありました。しかし折角の機会ですので若干の点についてご教示いただければと思います。
(1)陰謀説が成り立つのであれば、なぜ米側は迎撃しなかったのでしょうか。あのような損害や屈辱をあえて受けなくとも、ルーズベルトの目的は十分達せられたはずです。スティネットもこの点を衝かれてまともに答えられないようでしたが(『諸君』01年1月号?)。
(2)英が米を戦争に引き込みたかったことは当然であるし、ルーズベルトも大西洋で事実上の対独戦争(undeclared war)を行なっていました。しかしこのころドイツの対ソ戦の見通しは暗くなり、英国も最悪状態を脱しつつあったのですから、米国とすれば対英援助を拡大しつつ情勢を観望しておればよいのであって、あえて対独戦に踏み切らねばならない情勢にあったかどうか疑問を感じます。大統領が裏口参戦を考えたという明確な資料はなく、状況証拠でしか判定できないようです。
米国の戦略としても、二正面作戦は避けたいのは当然であり、そもそも日本から米国を攻撃した場合、三国同盟上はドイツには参戦義務はなかったのです(同様に日本も独ソ戦参加の義務はなかった)。現実のヒトラーの参戦動機は謎とされ、絶望感からというドイツの歴史家もおります(ハフナー『ヒトラーとは何か』草思社)。
(3)米国が日米交渉に応じ日米諒解案、6月21日案、仏印中立化案などを提案してきたことはやはり評価すべきでしょう。米国の対日強硬策が日本の南部仏印進駐以後であることは、もっと注意されるべきです(石油禁輸に対する自衛戦争論を強調する人は、仏印進駐のエポックを無視するのが常です)。日本が仏印から撤兵さえすれば歴史は変わったと思います(ルーズベルトの天皇宛親電も仏印撤兵を訴えていました)。勿論米国側の開戦責任も無視できません(この点については『中央公論』05年11月号の拙稿をご参照ください)。
(4)大西洋上における両首脳の会談は、従来の研究では、もっぱらその対日強硬姿勢のみが強調されていますが、仏印中立化提案もルーズベルトから説明され、チャーチルも賛意を表しています。両者の合意が8月17日に「対日警告文」として野村大使に手交されましたが、それはハルによってチャーチルと協議したときの文案より穏健なものに修正されたものであり(福田茂夫『米国の対日参戦』)、冒頭に「仏印中立化」を謳っています。ただこのとき両者が腹蔵なく意見を交換して枢軸打倒を誓い、戦後構想をねったことは大西洋憲章に明らかで、このとき以心伝心、米英間に同盟が成立したといってよいでしょう。
(5)日米開戦にチャーチルが喜んだのは当然ですが、彼の蒋介石を見捨てられないという電報だけで、暫定協定の提出を取りやめたとも考えられません。このあたりについてはご引用文献のほか、エドウイン・レートン等『太平洋暗号作戦』(TBSブリタニカ)にもあります。同書によれば英当局により75年間非公開とされている重要電報が存在するとのことですが、これが英側に解読された日本海軍機動部隊のハワイ出撃命令であったとしても、なぜそれが米側に通知されず、されたとすれば、なぜ米軍が邀撃しなかったのかという、当初の疑問が残ります。真相は不明というか、この解明は小生の能力を超えますが。
(6)日本をして最初の第一発を撃たせるという謀略はありました。
貴著には出ていませんが、開戦間際の12月3日、南シナ海に米国旗を掲げた小型船3隻をオトリとして出撃させたイザベル号事件です(戦後の査問委員会にて公表-『歴史と人物』83年増刊号)。しかし日本軍の反応なく失敗しました。ハル・ノート後米国は日本の軍事力行使を予想していましたが、まさか真珠湾にまでは、と油断していたのが真実ではないでしょうか。
小生は、ルーズベルトの責任を問うとすれば「真珠湾」からではなく「日米交渉」の中に求めるのが本筋という立場で、その過程は2003年上梓した『真珠湾への道』に可なり詳しく書いたつもりです。拙著については参考文献に挙げて頂いておりますが(副題は異なっています)、後半の松岡外交以降のところだけでもお目を通していただければと思います(前半は日中戦争解決策)。貴著において問題として指摘されている点も可なり言及しているつもりです。
(7)ほかにもお聞きしたいことがありますが、第九章の、現在の米国に対する考え方にはまったく賛成です。ルーズベルトはかなり前から「米国人の重荷」を意識していたように思われます。その方法は高飛車であるところに問題がありましたが、日本の対応策もまずかった。開戦責任は相互にあるというべきです。


Posted by: 大杉一雄 | April 25, 2006 at 12:06

大杉一雄さん

ご質問に対しての返答を用意しました。 しかし、多分長すぎて、此の欄には充分に入らないと思います。

出来れば、大杉さんの連絡先か電子メールの住所を教えて頂けないでしょうか。 直接送るのも一つの方法です。

窪田 明
2006年10月12日

Posted by: 窪田 明 | October 12, 2006 at 17:42


窪田のブログの索引、20061014

2006年10月14日

大杉一雄さんの窪田 明に対する質問に対しての返答を用意しました。 ブログに入れて公開させて頂きました。 下記のどちらかのURLをお使いになれば、簡単にダウンロード出来る筈です。 若し出来ない場合には、電子メール住所のa_kubota@hotmail.comをお使いになって、窪田 明に直接ご照会下さい。


http://blog.livedoor.jp/a_kubota1/
又は
http://kubota2006.exblog.jp

Posted by: 窪田 明 | October 13, 2006 at 23:53

大杉一雄様、窪田明様

大杉様の「真珠湾への道」は八重洲ブックセンターの河相全次郎氏に勧められて購入し、拝読しました。
「真珠湾攻撃は米国の陰謀であった」という説には小生も多大な疑問を抱き、少々調べてみました。以下は小生のホームページからの引用です。ご一読いただければ幸いです。

ーーーー

<再び米国の陰謀について>

戦後の史家や小説家の多くが「真珠湾攻撃は日本に第一撃を加えさせようとするアメリカの謀略であった」とする説をとっている。彼らはその根拠あるいは証拠として少なからざる数に達する要人のメモや発言を挙げている。しかし考えてもみよう、あの当時アメリカでは欧州戦争への参戦や対日防衛策等々につき、多くの要人や有名人が様々な意見を書類や口頭で上申したり献策したりしていた。あるいは公私の友人にも私信で自説を伝えていた頃である。例を引けば日本軍の戦力などについても、「あんな日本の猿どもに何が出来るか?」という侮蔑的評価から、「彼らはアメリカ本土やオーストラリア本土まで占領出来る」といった、自信過剰の日本軍でさえ全く考えもしなかった過大評価にいたるまで千差万別であった。戦後になってから、そうした無数と言える記録を穿り出し、自説に合うものを拾い集めればどんな理屈も組み立てられる。アメリカの陰謀説などはその最たるものであろう。

自己の出版物にいささかなりとも責任を感じる分筆家であれば、こうした、相反する意見に正負の点数をつけて平均すればプラス・マイナス・ゼロになるような雑多な資料の限られた部分に頼らず、疑いようのない事実、例えば国あるいは軍の行動や国際条約、さらには正式の声明や命令書などに基づいて全体に考察を加え、そして結論を出さなければならないのだが、日米開戦に関してそうした作業を進めるとアメリカの陰謀説などは決して浮かび上がってこない。ここで、当時のアメリカの世界戦略を基幹にし、歴史的事実に基づいて考察を加えてみたい。

・ アメリカは独立戦争でイギリスに勝利し、それに続く国内の南北戦争もなんとか処理して取り敢えず落ち着いた。その後はアメリカ原住民から土地を奪取し、メキシコの一部も領土に加え、現在と同じ広大な国土を北米大陸に築きあげた。さらにはハワイを併合し、フィリピンやグアムも植民地化した。

・ 20世紀に入ってアメリカの最大の興味は中国を含めたアジアにあったが、残念ながら、ここはすでにイギリス、フランス、オランダ、ドイツといった欧米列強に植民地化されており、手を出しかねる状況にあった。

・ 中国方面で残っていたいささか辺鄙な東北地方、すなわち満州方面も日清戦争勝利後の日本の狙うところになっていた。この方面にはロシアも進出を図っていた為、それを阻止する目的で、日露戦争ではイギリスと共に日本を支援することにした。イギリスもロシアの南下を嫌うが故に三次に亘る日英同盟を結んでいたのである。日本の戦勝後はアメリカが日露講和を取り持ち、その見返りとして後の南満州鉄道からシベリア鉄道に至る地域を日本と共同で開発しようと提案した。当時の桂内閣もそれを了承したが、講和会議から帰国した小村寿太郎が大反対し、この計画は潰されてしまった。仕方がないから、その2年後、1907年には英国と組んで日本に満州の門戸開放を迫ったりした。アメリカの目に、日本が非協力的と映ったのはこの時期からであろう。それでもロシアに対する警戒心は更に強く、第一次大戦中の1917年にはアメリカはイギリスやフランスと共に日本にシベリア出兵を要請している。レーニン率いる赤軍の東方進出を怖れたからである。後々に至っても中国市場を諦められないアメリカは1932年には国際連盟に圧力を掛けてリットン調査団を満州に送り込み、満州国建国は違法であると結論させた。その一方ではGMに豪華なリムジンを満州皇帝にプレゼントさせ、皇帝はその御料車に座乗して日本軍のサイドカーに警備させ、パレードを行っていた。今、中国はその写真を絵葉書にして売っている。

・ 第一次世界大戦ではアメリカは随分遅く参戦した。アメリカはイギリス及びフランスに多額の債権を所有していたから、両国が潰れてしまっては元も子もない。債権取立てを可能とする為に両国を助けて生かしたというのが本当のところであろう。だから終戦後もアメリカは疲弊したイギリスやフランスの借金を棒引きなどしていない。戦争終結後の1919年、パリ講和会議で世界平和樹立の立役者を演じたアメリカは、しかし、自ら提唱した国際連盟には加入しなかった。その背景はいろいろあるが、国民の多くがアメリカ一国主義と他国への不介入を願っていたからであろう。そのアメリカが国際連盟を利用して満州国問題という他国の問題に介入したのだから、アメリカの現実主義というか、ご都合主義は相当なものである。

・ 第二次世界大戦でも、アメリカはなかなか参戦しなかった。大体、アメリカ国民はヨーロッパ各国からの移民で成り立っており、ドイツ系・イタリー系も多かった。ドイツ・イタリーと戦うのは好まない国民が多かったのは当たり前であろう。英国に有償で供与した武器類で儲ければよいではないか、という打算が働くのもむしろ当然であろう。しかし、ドイツが大陸内はほぼ占領し、英国本土も危ないとなれば話は違う。債権取立てもさりながら、ドイツが英国まで占領すると、次はアメリカを狙ってくるのは自然の勢いである。ドイツがソ連と戦っていた時は、ソ連を石油供与などで援助して戦いを長引かせ、ドイツとソ連の双方が疲弊することを狙っていたアメリカも、ドイツが英国まで手中に収めるとなると話は違う。実際にも、アメリカは武器供与に留まらず、英米船団護衛の為に軍艦を派遣していた。船団がUボートに攻撃されれば護衛艦は反撃するのであるから、これはすでに臨戦状態であったと言えよう。日本がアメリカを攻撃しなくても、遅かれ早かれアメリカは欧州戦争に参戦する覚悟を決め、その為の準備を着々と進めていた。

・ 一方の日本との関係は全く様子が違う。20世紀初頭から中国を狙っていたアメリカにとって、その当時日本が中国と戦っていたのはまことに好都合であったろう。一方では中国を援助することで中国介入の大義名分と足がかりが出来たし、他方では日本の支那派遣軍や満州国軍の存在が中国を狙っていたソ連南下に対する防波堤となっていたのである。もし日本が南京攻略の後に、日本軍の消耗を心配した駐華ドイツ大使トラウトマンによる日中和平斡旋を承諾して蒋介石軍と和平を結ぶという賢い選択をしていたなら、アメリカが中国に出る幕はなかったのである。

・ 欧州に於ける戦争で欧州列強が疲弊していたこともアメリカには好都合であった。当時、中国方面でのアメリカにとって最善のシナリオは、「中国では蒋介石の国民政府だけを認め、列強の権益はアメリカと日本のそれを除いて撤廃させ、満州軍を除いて日本軍は中国から撤退させる」といったものであったろう。それによって、軍事的には満州の日本軍がソ連の南下を押さえ、援助により補強した蒋介石軍が中国国内の共産軍(毛沢東軍)を駆逐し、市場あるいは開発対象としての中国は日本と共同開発することが出来る。例のハル・ノートは、まさにその趣旨で書かれている。”中国からの日本軍の撤兵といえば、満州のそれを含む”という解釈をする人は当時も今も少なくないが、そんなことをすればソ連に対する防波堤がなくなる。当時、ソ連はドイツと戦っていたのであるから、”敵の敵は味方”であり、ソ連に対抗させる為に蒋介石軍への援助を続けることは出来なくなる。要するに、アメリカの中国に於ける足がかりと援蒋の大義名分を失うことになる。逆に満州に日本軍が残れば、日本とソ連は不可侵条約を結んでいたことであるし、日本もソ連の南下は警戒していたから、うってつけの役割である。更に、満州の日本軍と蒋介石軍が手を結べば毛沢東の共産軍を挟み撃ちにできる。どこから見ても最善の状態になる。・・・そうは言っても、アメリカとして承認していなかった満州国の日本軍は撤兵しなくて良いとは明言できなかったでのあろう。満州からの日本軍の撤兵を要求しないことをあからさまに書かず、中国からの撤兵だけを要求したのはアメリカの苦肉の策であったろう。ところが実際の歴史では日本がアメリカの案に乗ってくれず、逆に歯向かってきた。その為、大戦末期の中国にはソ連の介入を招くことになり、戦後にはソ連の後押しで毛沢東の共産軍は蒋介石軍を台湾に追い出してしまった。結局、アメリカは50年来の悲願であった中国市場を手に入れられなかったどころか、1972年のニクソン訪中まで民間ベースでの参入も出来なかった。また、中国共産化の影響は、その後の朝鮮戦争、ベトナム戦争にまで尾を引いたのである。

・ 同じハル・ノートではインドシナからの日本軍の撤退も要求している。これは、スマトラやボルネオの油田を日本が押さえた場合、そこに日本の石油需要を満たす十分な産油量があり、アメリカの対日石油禁輸が効力を失うことになるから、アメリカとして到底容認できない。分かりやすい要求であり、日本軍の南部仏印出兵に対する対日石油禁輸処置から一貫した姿勢である。

・ インドシナで、アメリカと日本を含めた列強の既得権益を放棄する条約の締結は、日本がハル・ノートを呑めば、アメリカの対独参戦を渇望するイギリスとしては賛成せざるを得なかったであろう。本国がドイツに占領されてしまっていたフランスやオランダも同様である。そうすれば、中国に権益を残すアメリカと日本がこの方面で有利になることは当然である。アメリカはスマトラの油田を民間資本により牛耳っていたから、特に有利であったろう。

・ こうして見ると、アメリカが日本にアメリカを攻撃させる意図があったという筋書きには無理がある。もし、日本がハル・ノートを呑めば、日本は陸軍予算の8割を投入していた支那派遣軍を始めとし、すべての軍事力を安全に引揚げ、日本に集結することになる。更に、アメリカは凍結資産を解除し、石油禁輸も解除する。アメリカが日本にアメリカを攻撃させたかったとすれば、ハル・ノートのお蔭で日本は全戦力を国内に集結し、アメリカに大打撃を与えて攻撃出来ることになる。これが合理主義、実利主義を尊ぶアメリカの望むところであったとは到底考えられない。

・ ハル・ノートには日独伊三国同盟に言及したと思われる部分もあり、そうした同盟が太平洋の平和を乱すように解釈され、実行されることのないように、と釘を刺している。しかし、日独伊三国同盟は三国のいずれかが他国から攻撃を受けたとき、三国共同してこれに対処することを約束しているだけで、逆に三国のいずれかが他国を攻撃した場合の協力義務はないのである。つまり、アメリカはアメリカがドイツ、イタリーを攻撃しても日本は参戦するな、と要求している訳であり、確かに三国同盟を骨抜きにしようとしている。ただし、それはアメリカの対独開戦意思を明示しているだけで、日本に対米開戦をけしかけていることには全くならない。反対に、日本との太平洋に於ける戦いを避けようとする意図が明白である。アメリカは太平洋と欧州での二面作戦を避けようとしていた。この時期、アメリカはまだまだ自国の軍備が不足していると判断していたのである。それは当然で、空母に例を取れば、太平洋に関する限り、日本の戦力はアメリカの3倍あったのである。

・ 実際には、ドイツは三国同盟上の参戦義務がないにも拘わらず、日本がアメリカを攻撃した数日後、具体的には日本軍がマレー沖で英戦艦2隻を撃沈した翌日、対米宣戦布告を発している。イギリスにとっては望外の事態進展状況であったのであるが、ドイツにはそうする事情があった。欧州での戦争の初期段階では、ドイツはソ連とポーランドを山分けしたりして良好な関係にあった。ドイツの必要とする石油はカスピ海のバクー油田地帯から輸入することが出来た。しかし、次第にソ連自体の石油事情がそれを許さなくなり、ソ連は対独輸出を押さえ始めた。怒ったヒットラーは即座にソ連を攻撃した。しかし、ソ連の防御戦はしぶとく、ドイツは攻めあぐねていた。その頃、英国本土への攻撃も手詰まりになっていた。こうなるとドイツは中近東や北アフリカの石油が欲しくなる。一方の日本は日米開戦前からドイツの優れた兵器を取り入れ、その輸入を継続しようとしていた。その目的で日本がドイツとの海上交通を確保する為にスエズ運河あたりまでを押さえてくれれば、ドイツにはこれが十分に可能になる。ヒットラーはそうした計算でそれまで避けていた対米戦争に踏み切ったのであろう。1941年11月15日の大本営政府連絡会議の決定には”インド洋を通する三国間の連絡提携に勉む 海上作戦を強化す”という文言が見られる。現実にも、ドイツは日本軍がインド洋界隈を押さえることを強く要請した。

・ アメリカはドイツ・イタリーの対米宣戦布告を受けて初めてドイツ・イタリーと戦争状態にあることを議会が認めたのであって、アメリカからドイツ・イタリーに宣戦布告をしたわけではない。これは1941年12月11日(アメリカ暦)のことであるが、その日の大統領演説にも、議会決議文にも、対日戦あるいは日本からの攻撃に対する言及は全くない。大統領は、「ドイツとイタリーの世界を奴隷化する試みから世界の人々の自由を守る為に・・・」と言い、議会は「ドイツとイタリーの宣戦布告に鑑み・・・」といった表現を使っている。欧州と太平洋との二面作戦を避けようとしていたアメリカにとって、対日戦はドイツとの戦いを議会に決意させるについては不利な材料となっていた。ドイツ・イタリーの対米宣戦布告がなかったら、アメリカは対応に苦慮していたであろう。真珠湾攻撃で全アメリカ国民が憎悪の炎を燃え上がらせたのは日本に対してのみであった。もっとも、攻撃直後には、「日本人にこんな攻撃が出来るわけがない。ドイツ機が日の丸をつけて攻撃したのだろう」と主張していた人達もいたようだが・・・。

・ こうした歴史的背景があるので、ハル・ノートに対する最も理解しやすい解釈は「引き伸ばし作戦」であろう。ずるずると時を稼ぎ、日本をますます脆弱にし、太平洋での憂いを無くして対独伊戦に赴く、といったところであったろう。日本側もそのように理解していた。日本の決断である「ジリ貧を避けてドカ貧に終わるに過ぎない一か八かの対米開戦」は合理主義あるいは実利主義の欧米人では理解できないところであったろう。

アメリカはハル・ノートに対する日本側の回答である対米覚書を事前に解読していたにも拘わらず、故意に日本の真珠湾攻撃の可能性をハワイに伝えなかったと言われる。それを唱える内外の史家が引用する事柄は事実ではあろうが、そもそも日本の対米覚書は日米交渉を継続しないと言っているだけである。勿論、日本が戦争を決意したことは読み取れるが、それは、日本のそれまでの方針、すなわち、南方を押さえて石油他の資源を確保する計画を続行し、アメリカの妨害を受ければ戦いも辞さないという覚悟を決めたと解釈するのが自然であろう。いきなり真珠湾攻撃を予測することは難しかったであろう。日本海軍の作戦はあくまで邀撃作戦であった。南方へ進出した日本軍を真珠湾から出撃した太平洋艦隊で叩くとすれば、これを迎え撃って戦うというのが本来の作戦計画だったのである。山本五十六がとんでもない計画を推し進めなければ、太平洋での戦争はほぼその構図で進んだであろう。とは言え、アメリカとして、真珠湾に対する攻撃は20世紀初頭からシナリオの一つに考えられていた。それ故にアメリカは大西洋に絶対的戦力を置く意見を押さえ、太平洋艦隊を増強し、最新鋭の爆撃機なども配備していた。例の役に立たなかったレーダーを配備したのも日本の攻撃に備えたからに他ならない。日米開戦の5ヶ月前、1941年7月には、当の太平洋艦隊司令長官から発せられたレインボー作戦に基づく命令の中で日本軍空母によるオアフ島攻撃の可能性が挙げられている。それが戦争シナリオの一つにすぎないとは言え、ハワイの太平洋艦隊にとっては日本軍がいつ攻撃してもおかしくないということは当たり前のことであって、ワシントンからわざわざ警告する必要もなかった筈である。日本軍のハワイ攻撃の図上演習も何回か行われ、艦艇や航空機による周辺の哨戒も日常的に行われていた。要は、太平洋艦隊司令部に油断があったのだろうし、ワシントンもそれほど差し迫った日本の攻撃は予期していなかったから週末のハワイを改めて驚かす程の警告は発しなかったのであろう。

この辺りの精神状況は日本自身を振り返って見れば分かる。アメリカの反攻がとうに始まり、ガダルカナルを始め次々と島嶼の基地を陥され、トラックの連合艦隊主力はフィリピンへ避退し、日本危うしと感じられていた開戦後2年以上を経た昭和19年(1944年)2月、日本海軍最大の基地であったトラックでは警戒解除を知らされた将兵が歓楽街に繰り出し、せっかく設置してあったレーダーが敵機影を捉えたと言うのに搭乗員を集められず、貴重な航空機数百機と多くの船舶・艦艇を瞬時に失ったという。直前にはクェゼリンが陥落していたという緊迫した情勢の戦争中であって、しかも非勢になりつつあった日本海軍の最前線根拠地でこんな油断があったのである。戦争も始まっていない時期にハワイの太平洋艦隊が油断するのはむしろ当たり前に思える。日米交渉打ち切りの通告文を解読し、日本が対米戦争の決意を固めたと理解しても、それが即座に真珠湾攻撃につながるなどと、当時のアメリカで誰が予想できたか。日本海軍も大反対であった無謀な作戦である。日本に第一撃を加えさせる目的でワシントンが特別な警戒警報をハワイに発信しなかったなどという想定は無理である。

小生は、上記に概説したような事情から、「真珠湾攻撃はアメリカの陰謀」などという説には全く信を置いていない。

ーーーー

Posted by: 赤堀篤良 | January 18, 2007 at 22:23

赤堀篤良さんへ
2007・03・27

大杉一雄さんと小生に対する赤堀さんの2007年01月18日の示唆を有難う御座いました。 二、三日前にやっと見つけました。

同じ問題に関して別の視角から熱烈な形で同時に研究することは、大変素晴らしい事だと思います。 赤堀さんの高見に対しての小生の反応を小生のブログに説明させて頂ました。 そのブログは、インターネットで、下記の信号の下に、容易にダウンロード出来る筈です。

http://kubota2006.exblog.jp/
http://blog.livedoor.jp/a_kubota1/?blog_id=1334268


ご健闘を祈ります。

窪田 明


Posted by: 窪田 明 | March 28, 2007 at 00:32

窪田明様

―貴ブログに送ろうとしましたが、文字数が多すぎるということで請け付けられませんでした。こちらに投稿させていただきます。―

ご意見を拝見しました。様々なご指摘ありがとうございます。

小生、歴史は考える学問であると理解しております。過去を正しく理解することにより、日本の将来を決定していく国家の1億分の1の構成要員として、できる限り厳然たる事実に基づき、自分の考えを纏めているつもりです。真珠湾陰謀論の件もそのように努めました。史家や著述業の方々にもいろいろおられるようで、誰かが何かの本で言い出したことをそのまま鵜呑みにしたものも多いようです。「ハル・ノート」などその最たるもので、小生が退職後2年間ほど図書館通いで調べた事例の一つですが、その限りでは正しい解釈は見られませんでした。引用したハル・ノートそのものが誤っていたり、不完全だったり、原文にない追加があったりします。小生は正確を期する為に日本文と英訳の両方を読むように努力しました。

また、国際問題を考える時、“あの時、どちらの国が正しかったか?”ということにはあまり関心がありません。所詮、国際問題はエゴの衝突です。それより、“あの時、日本はどう対処し、どう立ち回るべきだったか?”という疑問に主点を置きます。“勝てば官軍”の原理を良く理解していた日本人が“負けると分かっていた”あるいは“勝利するチャンスは無いと分かっていた”戦争をなぜ和平の方策も心算もなしに最悪の戦術で始めたか、こうした点が理解しかねるところです。日米自動車戦争で米国が排気ガスの規制を強化して日本車の締め出しを画策すれば日本車は技術でそれをクリアーし、日本車に“自主的対米輸出規制“を強要すれば米国内での生産でそれをかわし、ついにトヨタがGMを追い抜こうかという現在の日米関係を見るに付け、当時の為政者と軍人、更に言えば全国民の思慮の足りなさが情けなく思われます。トヨタやホンダがその経営方針を為政者や国民に求めたとしたら、今のような結果にはなっていないでしょう。島国日本が鎖国を解いてさほどの時日を経ていない”パリ講和会議“あたりの失態は仕方ないとしても、その失態を素直に反省し、それ以降に国際関係をよく勉強すればいま少しましな判断が出来たでしょうに、”神国日本“などというインチキ宗教並みの”思想“に逃げ込んでしまったのが誤りの始まりでしょう。

こうした姿勢をとっていますので、小生は自分の考えを纏めた文をフォーラムに出させていただき、事実や理論の誤りを指摘していただいております。

窪田様がご指摘になった諸点はその文中の半ばで“赤堀説に対する反論”と言われていますが、小生は補完と読み取っています。勿論、それらに対する反論はありません。ただ、知らなかったこと、理解できないことがありますので、お尋ねいたします。以下の通りです:

<戦前の日本と米国との関係は、ある意味では、「勢力分野」と「門戸開放」の対立の問題でした。 日本は、自分の身近の極東に、自分の都合の良い「縄張り」を作ろうとして必死の努力をしたのに対し、米国は、「そんな特別な権益地帯は認められない。 誰でも自由に参加出来る筈のものだ。」と反応しました。> 
日本の野心はその通りでしょうが、アメリカの“門戸開放”は単なる建前で、中国に出遅れたアメリカとしては、そう言うしかなかったのでしょう。日本は建前として“モンロー”主義を引っ張り出した訳で、日米の比較であれば、本音は本音同志、建前は建前同志でないと同レベルの比較にならないようです。建前については、現在でもアメリカは極端なご都合主義で、自由経済と自国への輸入規制を使い分けています。小生の論拠はハル・ノートにあります。そこでは“中国での各国の権益は日米が協力して放棄するよう説得する”ことを提案しています。“日米も権益を放棄する”とは言っていません。要するに日米だけによる中国の権益確保の提案で、門戸開放の対極にあります。

<米国は、新しい形の帝国主義の国で、或る面では、古い欧州の帝国主義国の政策と異なる外交政策を追求し、その欧米間の外交政策の差は、赤堀論文では、必ずしも、明確化されて居ない様です。 例えば、米国は、英国と異なり、その頃、中国に領土とか勢力分野を保持して居ませんでした。> 
小生は、帝国主義の違いではなく、米国は中国に出遅れたから植民地を持っていなかっただけの話と考えていました。何しろ、南北戦争が終結したのが日本の明治時代の始まりに当たり、その後、米国がハワイを併合し、グアムやフィリピンを植民地化したのは19世紀末で、その直後の20世紀始めには中国に於ける英・独・仏・露・日の植民地あるいは勢力圏は固まってしまっていましたから。

<真珠湾攻撃直前の英米関係を一覧すれば直ぐ分かる様に、その当時、チャーチルは、ワシントンのホワイトハウスに入り浸りでした。> 
そうだったのですか?小生は英国人が簡単に“戦争博物館”と呼んでいる、ロンドンの首相官邸近くにある“チャーチルの地下壕指令所”を見学しました。ここには、チャーチルの寝台なども残されていますが、一室には秘話装置がビッシリと置かれています。真空管を多数使った大型のキャビネットを数台並べたゴツイ設備です。そこでの説明では、その装置を使ってチャーチルは頻繁にルーズヴェルトと電話での打ち合わせをしていたということでした。両首脳の面談は大西洋上の巡洋艦で行われたことは知っていますが。

<確かに、英国は、米国の対独戦参加を強く望みましたが、それと同時に、米国の対日戦参加も強く希望しました。>
当時、日本の“南進政策”は英国に良く知られており、英・蘭が今のシンガポールやインドネシアを守るに手薄であった海軍力を米国からの艦艇派遣で増強して欲しいことを依頼したことは記録に見られますが、“対日戦参加”は知りませんでした。チャーチルと蒋介石がその対日戦に米国がもっと加担することを求めたのは知っていましたが・・・。

<更に、ロンドンで、真珠湾攻撃報告入手と同時に、チャーチルが大変喜んだと広く伝えられて居ます。 当時、英国にとって米国は、最大の同盟国でしたが、その国の海軍の大部分が奇襲攻撃で大破されたと聞き、歓喜すると言う成り行きは、どう見ても、何か特別な説明が要ると思います。> 
チャーチルは策略家として優秀であったようですが、感情は抑えなかったようです。マレー沖海戦で英戦艦2隻を失えば嘆き悲しんだそうです。真珠湾攻撃でアメリカの老朽戦艦が数隻失われたとは言え、それが米国を世界戦争に引き込むことになる喜びとは比較にならなかったでしょう。彼がずるい政治家であれば、真珠湾の犠牲に衷心の気持ちだけを表明しただけでしょうが、彼は正直でありすぎたか、喜びが大きすぎたか、のどちらかでしょう。本心を言えば、山本五十六に感謝の電報くらい打ちたかったでしょうが。

<それから、此の日英米交渉で、英国は、自分の立場を全部米国に任せて居る点が、奇妙な対日接近法です。> 
ドイツに乗っ取られそうになっていた英国に、独自の対日交渉は到底無理だったでしょう。“あんたに任せるから、何とか助けてくれ”といったところが正直なところだったでしょう。そうは言っても、強心臓のチャーチル、ルーズヴェルトに図々しくいろいろな注文は付けていたようです。蒋介石とその夫人もそうですが・・・。

<現在の処、日本では、真珠湾攻撃陰謀説は、余り人気がありません。 筆者は、多くの日本の人々とその点で、議論をして来ましたので、その事は良く知って居る積りです。 中には、陰謀説の本は、皆、発禁になるべきだと言う様な調子の研究者も居ます。 少数の日本の方々にとって、感情的に許せない事柄らしいです。 怒って居るみたいです。>小生は逆の感想を得ました。米国で言い出してくれた陰謀説を歓迎して、“だから日本は悪くなかったのだ”などとあの戦争を他人のせいにする人が少なくないのです。そんなことではあの戦争の犠牲と経験を後世に生かすことは到底できないという思いで、自説をホームページに掲載し、1億分の1としての義務を果たしたつもりです。外務省関係者も無通告開戦となった件から関連する事柄について話したくないのでしょうが、現地日本大使館に全責任を押し付けた形の問題を避けて通らず、堂々と反論すれば良いと思います。自己弁護は出来ないでしょうが、もっと大きな責任が他にあったことは立証できるでしょう。こんな国内問題でも議論できないのですから、他国との交渉を有利に進めることなど到底期待できません。

赤堀篤良

Posted by: 赤堀篤良 | March 31, 2007 at 13:48


赤堀篤良さん

窪田 明より

返答を書き、小生の何時ものブログに掲載しました。

赤堀篤良さんへの返答
窪田 明
2007・04・02

赤堀さんの2007年3月31日13:48の評に対してお答えします。


http://kubota2006.exblog.jp/
http://blog.livedoor.jp/a_kubota1/?blog_id=1334268

Posted by: 窪田 明 | April 02, 2007 at 17:38

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