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「わたしは慎吾」byアロッタファジャイナ

「わたしは慎吾」byアロッタファジャイナ 見てきました。


●役者がよかった

間近で見たこともあり、役者たちがいきいきしていて、力もあり、よかった。上野未来さんはさすがかわいかったけど、慎吾役の藤沢くんかな、難しい役をよくやってました。根岸絵美さんの悟役もよかったけど、僕としては、黄色い服のシズカ役、朋加さんかな、彼女が一番よかったかも。演劇らしくない、映画的な情感があったという感じかな。逆に、ロビン役の奥村拓君かな、もう一歩だったかも。がんばってたんだけど、ロビンの役柄の奥深さが出ていなかった、単なるやなヤツになっている感じ。ああいうキャラの奥行きが演劇全体の深さを決めるのではないかな。もちろん、へたといういうことではなく、一番難しい役だったから。

●クォリティが落ちなかった

客との距離が近く、客の反応をもろに受ける中で、テンションを維持して演じることは難しいことだと思うし、客の愛に甘えずに演じ着れたこと、そしてその演出の考え方はとてもよいと思う。クォリティという面では、3000円は安すぎる。
というあたりまでは、グッドなところなんだけど、ここから厳しめの評(^^;)

●脚本が、どうなんだろう?

原作を読んでいないからわからないけれど、まず、見終わって、原作を読みたいと思わなかった。ある意味、あの難解な世界をまた反復する気持ちにならなかった、というのもあるけれど、難解な原作の世界を、舞台という時間の芸術に昇華させるときに、脚本家なりのきりとりというか、もっと大胆な解釈ができたのではないかという気がする。原作の何かを舞台に反映させたかったのだろうけれど、細部の表現が冗長に感じて、その冗長さを楽しめばいいのか、逆にストーリーのメッセージを受け取ればいいのか、両立できていなかった感じ。

たぶん、もっと脚本家なりの解釈を大胆に加えて、「子ども」「おとなになること」「愛」「言葉」「伝えあうこと」「誤解」といったテーマを脚本家なりにくっきり描いたほうがよかったように思うけれど、どうなんだろう。原作者に嫌われて舞台化できなかったかもしれないけれど、楳図さんならそれもおもしろがってくれたのではないかという気もするけどな。

●メッセージが多すぎ、あるいは深め不足

脚本の話とも関係するけれど、やはりメッセージが多すぎるような。でもたぶん、多すぎることが問題なのではなく、その中のひとつでも、しっかり深まっていれば、周辺のメッセージがあいまいでも、それは揺らぎとして楽しめたのではないかという気がする。

僕は、あのストーリーなら「子ども」と「おとな」の関係を描いてほしかった気
がするな。

●子どもって何?

描かれている子どもが、現実の子どもではなく、リアリティがない。演劇だから、リアリティはいらないのだけれど、だったら、仮想的な形で、現実の子どもやおとなのなかの子ども製だとか、何かある部分を、観客の心の中と共鳴するような形で、取り出してほしかった気がする。

要するに、「子ども」といっているものに、シンパシーを感じることができなかったんだよね。

●なんで急いでいるのか?

舞台全般に、急いでいる、時間がない、という状況が流れているけれど、なぜ時間がないのかがよくわからなかった。これは原作の問題なのかな。原作はともかく、2時間、せかされているのは、観客としてはちょっとつらい。愛の物語なら、せかすのではなく、ゆっくり愛の時間を見せてほしいし。

●メリハリかな

で、やはりオーバーメッセージというか、おなかいっぱいのわりに、そのうちの何を伝えたかったのかよくわからないという印象が残る。もちろん、ハリウッド的なわかりやすさは浅はかとしても、フランス映画的な余韻、考えさせられ感覚、あるいは「愛ってすごい」というような圧倒的な強引さなんかが残るとよいのだけれど。

脚本の問題もあるけれど、演出として、もっとメリハリをつけるとか、あるいは逆に、途中休憩を入れてしまうとか、客のテンションを下げたり上げたり、うまくコントロールしてほしい感じ。

●これからアロッタはどこに行きたいのか?

平日の昼間にしてはよくお客も入っていたし、ああいうタイプの演劇としては成功なんだと思う。でも、演劇習慣のない僕としては、「おもしろかったからみんなに勧める」という感じじゃない。こういう物が好きな人が来てくれればいい、わからない人にはわからなくていい、というあきらめが感じられる。

どういうものを、誰に伝えていくのか、アロッタとして、松枝佳紀として、思想性によるけれど、役者のがんばりや演劇の可能性を考えると、もっと新しいものがみたい気がするな。

●可能性として

まず、ストーリーをもっとわかりやすくして、読後感をすっきりさせる。考えさせるにしても、考えるポイントがちゃんと残るように。

次に、もっと楽しませてほしい。笑、泣き、喜び、悲しみを、役者と観客で共有したい。人間がそこにいるからできることをもっと現実化してほしい。その意味では、たけしやタモリのバラエティTVの手法なんかも、研究する価値があるかもしれない。

場所を、もっと工夫したい。まず、背もたれのない狭い椅子に2時間はつらすぎ。六本木ヒルズや品川プリンスシネマで1800円出して2時間映画を見る椅子は、もっとずっとちゃんとしている。気持ちよく、リラックスしてみる工夫は重要。

もちろん立派な劇場でなくてもいいので、ごろ寝や座椅子でもいいんじゃないのかな。あるいは掘りごたつとか。観客が「見る気になっている」から一生懸命見ているのではなく、どんなにしらけていても、集中させちゃうぐらいのパワーがほしい。

Kick The Can Crewのラップ「神輿ロッカーズ」に、「もし、会場中が全員ケンケンガクガクになっても、もし会場中が突然せんべいばくばく喰いだしても、ぜんぜん楽々、盛り上げちゃう、にらんだダンスホールは、間違いねえ、これにかけちゃWe are the champion~」というフレーズがあるんだけど、そういう心意気がほしいかな。

それと、おしゃれ感がほしい。演劇ってやっぱり、貧乏っぽい。でも何かしらおしゃれな雰囲気があってもいいはず。たとえば、受付のメンバーの服をすごく今っぽくしてもいいし、待っている間の音楽、立て看の色使い。もちろん、手作りでいいのだけれど、舞台の外にまで一貫する洗練さがほしい。

「慎吾」ではプロジェクタを使っていたけれど、あれの映像の質を上げるとか、打楽器ひとつでいいので生で入れるとか、そういうことかもしれない。

コンパクトでいいので、上質さがほしい、という感じかな。おとなが楽しめる芸術に脱皮してほしいかなという印象。


 ★ ★ ★

ということで、いろいろ書いてしまって、失礼しました。

いろんな意味で、原石を感じたのだけれど、それだけに、どうやってそれを磨いていくか、磨き方が問われていると感じました。

僕は今フォルクスワーゲンのゴルフに乗っているのだけれど、カローラよりずっと小さなボディの大衆車の中にある、洗練度、しなやかさは本当にすごい。ギミックは何も使わずに、どの要素もまったく凡庸なのだけれど、すべてのレベルが非常に高い。しっとりした乗り心地はたとえば日産シーマと同等だし、ハンドリングの素直さとスポーティ感の両立はアルファロメオと同等。日産が「コンパク・ミーツ・ラグジュアリ」というコンセプトでティーダというクルマを出したけれど、がんばってはいるけれど、150万円というプライスタグの小型車しかつくれない。ゴルフは同サイズだけれど、250万円。この100万円の差を納得させる品質があるのだよね。

大衆的なのに、内容が濃く、量販品なのに、高くても納得させる。

そういうものを目指せるのではないかと思いました。日本を芸術のあふれる国にするために、高みを目指してください。

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